はじめに
なぜ働かなければならないのだろう。
どうしてこんなやり方で働いているのだろう。
こんな疑問を持ったことはありませんか?
私はあります。日常茶飯事です。
そんな疑問の一端を解決すべく、ホワイトカラーの現状について考えてみたいと思います。
過剰なホワイトカラー労働者
ホワイトカラーの仕事に就くということは、かつては知的エリートの象徴でしたが、ちょっと頭が良いだけで、肉体労働が苦手で貧弱な私には、その選択肢しか残されていなかったという悲しい現実があります。加えて、私のようなホワイトカラー労働者たちは、いまや少ない椅子を奪い合う激しい競争の中にいます。なぜなら、ブルーカラーの人手不足が叫ばれる一方で、ホワイトカラーの労働者は飽和状態なのです。そして、その状況をさらに悪化させているのが、AIの台頭をはじめとする技術革新です。
真実を言えば、技術による代替によって、多くのホワイトカラー業務はすでに不要になりつつありますが、誰もがその事実を直視したがりません。むしろ、「ほら、私たちはまだ必要なんだ!」と叫ぶかのように、新たなブルシットジョブが次々と生み出されています。加えて、知能労働者と自負している割には、現代の働き方には驚くほどの非効率と中途半端さが共存しています。
非効率で中途半端な現代の働き方
たとえば、ステークホルダーの多様化に伴ってメールのCCが無意味に増加し、情報の洪水に飲み込まれることがよくあります。「誰も見ないんじゃないの?」と思うほどのCCの数に、メールがまるでパズルのピースのように散り散りに送られてきます。
さらに、オンラインコミュニケーションの便利さを享受するはずが、チャットグループは乱立し、通知が鳴り止まないのに、なぜか肝心なやりとりは結局対面での報連相が必要になることも。誰もがオンラインでの反応は薄く、会議室で顔を合わせると「ああ、やっぱりこれ対面じゃないとダメだよね」という結論に至るのです。
そして、オンライン会議とオフライン会議の折衷案として、一部の人だけがオンラインで参加するWeb会議が行われることもあります。オフィスにいる人たちは画面の中の誰かに「聞こえてますか?」と何度も確認しながら進行しますが、オンライン側の参加者はその場の雰囲気を感じとることはできず、会議後に「もう一度要点を教えてください」となるのがオチです。
また、デジタル化が進んだといわれる現代にも関わらず、書類はデータでやり取りされながらも、確認のサインをするためにはなぜかわざわざ印刷して、捺印して、スキャンして送り返すというアナログなプロセスが挟まれます。デジタルの時代にアナログの重荷を背負い続けるこの矛盾は、一体どこから来るのでしょうか。
フリーアドレス制度の導入も、理想的な働き方改革の一環として注目を集めましたが、現実はそう甘くありません。結局、誰もが同じ席に座り続け、実質的に固定席化してしまう現象が見られます。管理も希薄になり、出社率も低いため、座席の利用状況は混沌とし、フリーアドレスのメリットが形骸化してしまうのです。
このように、ホワイトカラーの働き方には多くの非効率さや中途半端さが紛れ込んでいます。ちょっと頭がいいだけの私たちは、この非効率な世界で生きている矛盾を抱えつつ、新たな技術やライバルに仕事を奪われないようにしながら、その存在意義を必死に主張し続ける必要があるのかもしれません。
職を奪われそうになる時、私たちはどうするか
かつて、産業革命時代にはラッダイト運動という機械に対する強烈な反抗運動がありました。職を奪われることへの恐怖に駆られたブルーカラーの労働者たちは、工場を襲撃し、機械を破壊しました。しかし、現代のホワイトカラーは、そのような情熱を持ち合わせているでしょうか?いや、残念ながらそうではありません。私たちは反抗するほどの情熱もなく、かといって従順に受け入れるほど諦めもつかない、なんともみじめな生き物です。変革の波が目の前に押し寄せてきても、それに立ち向かうのではなく、ただただ波に流されながら、目の前のブルシットジョブをこなしているにすぎないのです。
今後の展望
なぜ働くのか、どうして現代の働き方が存在するのか、まだまだ考察の余地があると思います。このコラムでは、今後も過去を振り返ったり、現状を鑑みて、現代の働き方に関して論考をしていき、働くことへの疑念を晴らしていきたいと思います。
