多様性という考えのはじまり
「多様性」という言葉が、日本のビジネスの現場に根を下ろし始めて久しい。性別、年齢、国籍、働き方、価値観——多様なバックグラウンドを持つ人々が共に働くことは、今や当たり前とされている。
だが、その「当たり前」は、実はかなり複雑な経緯と前提を伴っている。
日本における多様性の議論は、1990年代の労働力不足の問題を起点に拡大してきた。人口ボーナス期を過ぎ、男性中心だった労働構造が立ち行かなくなったことで、女性や高齢者、外国人、障害者といった、これまで周縁化されていた人々の就労促進が急務となった。つまり、日本のダイバーシティは、「人権」や「自由」という思想よりも、「持続可能な経済活動」という目的から導入された側面が強い。
一方、アメリカをはじめとする西側諸国では、歴史的に市民権運動や人種・性の平等をめぐる思想的背景が、多様性の推進を支えてきた。だが2025年、トランプ政権の再登場をきっかけに、その「思想的ダイバーシティ」さえも揺らいでいる。多様性をめぐる価値観は、世界的にも再定義の局面に入っているのかもしれない。
こうした中で、あらためて問いたい。「多様性を受け入れる」とは、一体どういうことなのか。
多様性を受け入れて働くとは
価値観が違う。
話が合わない。
なんとなく苦手。
それでも、「一緒に成果を出さなければならない」というのが、職場という場所の現実である。
当然ながら、自分と相手の性質が異なれば異なるほど、互いの摩擦係数は高くなる。ちょっとした言葉の違いが引っかかりになり、些細な表情が気になってしまう。“違う”というだけで、なぜか疲れる。それが人間だ。
多様性とは、彩り豊かなチームが仲良く並んでいる状態ではない。
「お前のことが嫌い」と言っている人とも、目的のために協働しなければならないという状況を受け入れることだ。
その現実から目を逸らさないこと。
それが、多様性を本当に受容するということではないだろうか。
オフィス空間に求められること
だからこそ、オフィスという場には、「すべての人が心地よくいられる空間」ではなく、「すれ違いや摩擦が起きたときに、ちょっと離れられる余白」が必要だ。
ここで言う余白とは、単に床面積の広さを指すわけではない。
理由なく1人になれる場所。戻るときに気まずさを感じない場所。
そういった、心理的な“逃げ道”のある設計が求められる。
たとえば、周囲の視線を遮れる半個室ブース。
通路脇のベンチや窓辺のソファ、用事がなくても座っていていい場所。
空間的に仕切られていても、閉じすぎない。そこに人がいても咎められない。
そうした場所がオフィスの中に点在していることで、摩擦係数の高い人間関係にも、一瞬呼吸を整える「間」が生まれる。
オフィスは、ずっと一緒にいるための場所ではない。
衝突が起きたとき、「ちょっと離れる」ための余白がある場所であるべきだ。
岐路に立たされた多様性という価値観
かつて、アメリカはその選択をリードしていたはずだった。人種、性別、宗教、あらゆる違いを力に変えるモデル国家として。
だが今、2025年のアメリカは、自らが掲げてきた多様性を“是正”し始めている。「多様性はもう充分だ」と言わんばかりの声が、政治の場からも聞こえる。
となれば、私たちはもう一度考え直す必要がある。
多様性は、外から押しつけられるスローガンではない。
誰かに理解されるためのものでもない。
“理解しきれない相手と、なお働く”という覚悟。
そのために、少し離れる場所と、また戻ってこられる仕組みがあること。
そういった取り組みの中にこそ、多様性と共に働く未来があるのだと思う。
